近藤忠孝

近藤忠孝
こんどう ただたか
こんどう ちゅうこう
生年月日 1932年4月2日
出生地 日本の旗 日本 東京都北区
没年月日 (2013-06-05) 2013年6月5日(81歳没)
出身校 旧東京都立大学人文学部卒業
(現東京都立大学)
前職 弁護士
現職 弁護士
所属政党 日本共産党

選挙区 (全国区→)
比例区
当選回数 3回
在任期間 1974年7月8日 - 1977年7月3日
1980年7月8日 - 1992年7月7日
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近藤 忠孝(こんどう ただたか/ちゅうこう、1932年4月2日 - 2013年6月5日)は日本弁護士政治家参議院議員日本共産党公認)を3期務めた。全国公害弁護団連絡会議初代幹事長。

来歴

1932年4月2日、東京都北区にて化学工場の労働者の子として生まれる[1]。東京都立大学 (1949-2011)(現首都大学東京人文学部卒業後の1960年に日本共産党へ入党。1962年には弁護士を開業、黒田法律事務所(現東京法律事務所)へ入り各種労働事件の弁護を担当する[1]1965年青年法律家協会議長、1968年にはイタイイタイ病弁護団副団長に就き、裁判で全面勝訴を勝ち取る[1]。イタイイタイ病裁判では、「勝利するためには被害者のいる現地・富山で弁護士として活動することがどうしても必要」として、一家で当時居住していた東京都から富山へ移住しており[2]NHK歴史情報番組その時歴史が動いた 苦しむ患者を救いたい~イタイイタイ病裁判・弁護士たちの闘い~」(2007年3月7日放映)にゲスト出演し当時の状況を証言した[2]

1974年第10回参議院議員通常選挙全国区から出馬し初当選(このときは3年議員だった)、1992年の引退まで3期15年にわたり参議院議員を務めた。議員在職中は大蔵委員、公害・環境対策特別委員に属した。

京都弁護士会会員として、京都府京都市下京区に近藤忠孝法律税務事務所を開設していたが、2013年6月5日に肝硬変のため死去[3]

著書

脚注

  1. ^ a b c 中島晃「近藤忠孝団員の古希によせて」自由法曹団京都支部ウェブサイト
  2. ^ a b NHK「そのとき歴史が動いた」近藤忠孝元参院議員がゲスト出演 3月7日(水)午後10時、イタイイタイ病裁判京都民報ウェブサイト
  3. ^ 元参院議員・近藤忠孝さん死去 イタイイタイ病弁護団長 朝日新聞 2013年6月6日

参考文献

第1回
(定数100)
3年議員
偶数回
第2回
(定数50)
3年議員
第4回
(定数50)
3年議員
第6回
(定数50)
3年議員
第8回
(定数50)
3年議員
第10回
(定数50)
3年議員
第12回
(定数50)
奇数回
第3回
(定数50)
3年議員
第5回
(定数50)
3年議員
第7回
(定数50)
3年議員
第9回
(定数50)
第11回
(定数50)
†:当選無効・失格など、↓:途中辞職・死去など、↑:繰上げ当選または補欠選挙で当選(合併選挙で当選した3年議員を除く)。
日本の旗 比例区選出参議院議員(1983年以降)国会議事堂
奇数回
第13回
(定数50)
自民
社会
公明
共産
民社
サラ新
福祉
新自
二院ク
第15回
(定数50)
社会
自民
公明
共産
民社
二院ク
税金
スポ平
第17回
(定数50)
新進
自民
社会
共産
さきがけ
二院ク
第19回
(定数48)
自民
民主
公明
共産
自由
社民
保守
第21回
(定数48)
民主
自民
公明
共産
社民
日本
国民
第23回
(定数48)
自民
公明
民主
維新
共産
みんな
社民
第25回
(定数50)
自民
立民
公明
維新
共産
国民
れいわ
社民
N国
偶数回
第14回
(定数50)
自民
社会
公明
共産
民社
税金
サラ新
二院ク
新自ク
第16回
(定数50)
自民
社会
公明
日新
共産
民社
スポ平
二院ク
第18回
(定数50)
自民
民主
共産
公明
自由
社民
第20回
(定数48)
民主
自民
公明
共産
社民
第22回
(定数48)
民主
自民
みんな
公明
共産
社民
たち日
改革
第24回
(定数48)
自民
民進
公明
共産
維新
社民
生活
  • 青木愛
第26回
(定数50)
自民
維新
立民
公明
共産
国民
れいわ
参政
社民
N党
↓:途中辞職・在職中死去など、▼:除名、↑:繰上げ当選、x:繰上げなし
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