伊東隆治

1953年

伊東 隆治(いとう たかはる、1898年7月8日 - 1968年3月28日)は、日本の政治家衆議院議員(3期)。参議院議員(1期)。

来歴・人物

鹿児島県大島郡龍郷村生まれ。鹿児島県立第二鹿児島中学校・第一高等学校を経て、東京帝国大学法学部に進学。帝大在学中の1921年(大正10年)に高等試験行政科・外交科で合格し、卒業後に外務省入りし、在漢口総領事館領事官補。同期入省に井口貞夫(駐米大使、外務事務次官)、田尻愛義(外務次官、大東亜次官、政務局長)、安東義良(駐ブラジル大使、欧亜局長)、西村熊雄(駐フランス大使、条約局長)などがいる。

外務省では通商局第五課長・漢口総領事興亜院華中連絡部文化局長を歴任し、中華民国大使館参事官を最後に退官する。

1947年(昭和22年)の第1回参議院議員通常選挙全国区から出馬(無所属)、下位ながら任期3年議員として初当選を飾った。直後に民主党入りし、芦田内閣外務政務次官に就任。更に国民民主党→改進党と党籍を移すが、1950年参院選では落選し、1952年の衆院選(東京3区)・翌1953年の参院選鹿児島県選挙区)でも政界復帰を果たせなかった。

1953年(昭和28年)に奄美群島が日本復帰し、それに伴う奄美群島選挙区新設に因る補欠選挙が1954年(昭和29年)2月に行われ伊東も出馬したが、伊東・保岡武久(前鹿児島県副知事)・金井正夫・宗前清(いずれも元代議士)・泉芳朗(前名瀬市長)と有力候補が居並ぶ中で法定得票数を得た候補が1人も出なかったため再選挙に追い込まれた。4月の再選挙では保岡に次ぐ次点に終わったが、翌1955年(昭和30年)の第27回衆議院議員総選挙で保岡を破り衆院初当選を果たす(日本民主党)。

その後は奄美群島区の1議席を保岡と争うことが続き、1958年の総選挙1960年の総選挙では保岡に敗れたものの、1963年の総選挙1967年の総選挙で連続して当選を果たしている。自由民主党では佐藤派に属し、党政策調査会外交副部長を歴任。また第3次池田改造内閣から第1次佐藤内閣にかけて経済企画政務次官、第1次佐藤第2次改造内閣から第3次改造内閣・第2次佐藤内閣にかけて自治政務次官を務めている。

衆議院議員在任中の1968年(昭和43年)3月28日、東京大学医学部附属病院で死去、69歳[1]。死没日をもって勲一等瑞宝章追贈(勲三等からの昇叙)、正四位から従三位に叙される[2]

娘は弁護士白川勝彦と結婚。

脚注

  1. ^ 第58回国会 衆議院 本会議 第21号 昭和43年4月5日
  2. ^ 『官報』第12387号16頁 昭和43年4月2日号

参考文献

  • 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』衆議院、1990年。
鹿児島県の旗 旧奄美群島選挙区選出衆議院議員(1954年 - 1990年) 国会議事堂
定数1
第1回
(定数100)
3年議員
偶数回
第2回
(定数50)
3年議員
第4回
(定数50)
3年議員
第6回
(定数50)
3年議員
第8回
(定数50)
3年議員
第10回
(定数50)
3年議員
第12回
(定数50)
奇数回
第3回
(定数50)
3年議員
第5回
(定数50)
3年議員
第7回
(定数50)
3年議員
第9回
(定数50)
第11回
(定数50)
†:当選無効・失格など、↓:途中辞職・死去など、↑:繰上げ当選または補欠選挙で当選(合併選挙で当選した3年議員を除く)。