悼公 (斉)

悼公 姜陽生
公(周制における爵位は侯)
王朝
在位期間 前489年 - 前485年
姓・諱 姜陽生
諡号 悼公
没年 前485年
景公
后妃 季姫

悼公(とうこう、? - 紀元前485年)は、春秋時代の斉の君主。姓は姜、諱は陽生。

生涯

斉の景公の子として生まれた。紀元前490年9月に景公が死去して、晏孺子荼が斉公として即位すると、陽生は翌月にに亡命した[1]紀元前489年10月、陽生(悼公)は田乞らに迎えられて斉公として即位した[2]。悼公は魯の季孫肥(季康子)の妹である季姫を迎えようとしたが、季孫肥が渡そうとしなかった。このため悼公は紀元前487年の5月に鮑牧(中国語版)に命じて魯に侵攻させ、讙と闡を奪った。悼公は呉に魯への出兵を要請した。しかし魯とのあいだに和平が結ばれ、9月に魯の臧賓如がやってきて盟を交わし、斉からは閭丘明が魯に赴いて盟を交わした。魯は季姫を斉に送り、悼公は季姫を寵愛した。悼公は鮑牧を潞に移して殺させた。12月、悼公は讙と闡を魯に返還した[3]紀元前486年、悼公は呉に対して魯への出兵要請を撤回する使者を送った。このため呉とのあいだが険悪になった[4]紀元前485年、呉・魯・・郯の連合軍が斉の南郊を侵した。3月戊戌に悼公は斉の人に殺害された[5]

脚注

  1. ^ 春秋左氏伝』哀公5年
  2. ^ 『春秋左氏伝』哀公6年
  3. ^ 『春秋左氏伝』哀公8年
  4. ^ 『春秋左氏伝』哀公9年
  5. ^ 『春秋左氏伝』哀公10年による。『史記』斉太公世家では悼公が鮑子に殺されたとするが、『春秋左氏伝』では鮑牧はすでに哀公8年に殺害されている。
姜斉の(前489年 - 前485年)
  • 呂尚(太公望)前1021?-前1000
  • 丁公前999-?
  • 乙公
  • 癸公
  • 哀公?-前863
  • 胡公前862-前860
  • 献公前859-前851
  • 武公前850-前825
  • 厲公前824-前816
  • 文公前815-前804
  • 成公前803-前795
  • 荘公贖前794-前731
  • 釐公前730-前698
  • 襄公前697-前686
  • 公孫無知前685
  • 桓公前685-前643
  • 斉侯無詭前643
  • 孝公前642-前633
  • 昭公前632-前613
  • 斉君舎前613
  • 懿公前612-前609
  • 恵公前608-前599
  • 頃公前599-前582
  • 霊公前581-前554
  • 荘公光前553-前548
  • 景公前547-前490
  • 晏孺子荼前489
  • 悼公前488-前485
  • 簡公前484-前481
  • 平公前480-前456
  • 宣公前455-前405
  • 康公前404-前379
カテゴリ Category:斉の君主