ハンス・マカルト

画家の王(Malerfürst[1]ハンス・マカルト

Hans Makart

de
『自画像』(1878年)
誕生日 1840年5月28日
出生地 オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国 ザルツブルク
死没年 (1884-10-03) 1884年10月3日(44歳没)
死没地 オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国 ウィーン
墓地 ウィーン中央墓地
流派 アカデミック美術
芸術分野 神話画、歴史画、寓意画
代表作五感(フランス語版)[2]
カール5世のアントワープ入城
『クレオパトラの死[3]
受賞 レジオンドヌール勲章[4]
後援者 フランツ・ヨーゼフ1世
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ハンス・マカルトドイツ語: Hans Makart1840年5月28日 - 1884年10月3日)は、アカデミック美術に属するオーストリア画家。「画家の王」と呼ばれた19世紀後半のウィーン美術界を代表する人物であり[1]、当時のウィーン社交界の中心人物として君臨した。レジオンドヌール勲章の授章者である[4]

代表作に『五感(フランス語版)』、『カール5世のアントワープ入城』などがある。アルフォンス・ミュシャグスタフ・クリムトなど、若い頃にマカルトの影響を受けた画家は数多い。

生涯

修行時代

1840年5月28日、宮廷官吏の息子としてオーストリア帝国ザルツブルクに生まれた[5]。幼少期に父親を亡くし、叔父の世話を受けながら絵画の勉強をした[5]。若い頃はミュンヘンの美術アカデミーで研鑽を積んだ[1]。21歳の時に歴史画で有名なカール・テオドール・フォン・ピローティに師事し、同時期にフランツ・フォン・レンバッハと知り合う[5]

ウィーン招聘

マカルトのアトリエ(エドゥアルト・シャールモント(英語版)画、1875年頃)

ミュンヘンでの修行の後、さらに4年間イギリスフランスイタリアで腕を磨き[6]1869年に宮内長官[7]ハンス・ヴィルチェク伯爵に勧められてウィーン美術アカデミーの教授招聘に応じた[6]ウィーンにやってくると、20代後半という若さにして、たちまちウィーン画壇のみならず社交界の中心人物となった[2]。マカルトは、自らのアトリエを単なる仕事場とはみなさず、自身の美的世界を構築する場とした[7]

きらびやかな飾りのついたドイツ・ルネッサンス風の櫃のうえに、支那の仏像や、テラコッタ産と思われる異教じみたギリシアの聖像がおいてある。後期ローマ様式の二つの柱に支えられた天蓋の下には、一揃の甲冑、古代イタリア風の戸棚には、金と真珠の織りこまれたオリエントの頭布のコレクション。丈のある暖炉に似た置物、その幻想的な木彫りの縁飾りには、軽快なフォルムを描く二つのアレゴリーに守護された女の胸像が会釈をおくっている。スミルナ産の絨緞とゴブラン織が壁をおおい、古代イタリアやオランダ人の作品を思わせる立派な複製、画がそこにくっきりとうかびあがっている。大胆なフォルムのシャンデリア、吊りランプ、女の形をした照明具が、天井板に視線をひきつける。まぐさや室の隅々には、アンティークや中世の武具。人々は胸像、動物の骨、剰製、夾竹桃、楽器といった品々にとりまかれ、ブル流の家具や象嵌細工の椅子にすわり、まばゆいばかりの錯綜のなかに、次第に芸術的な調和を見いだしてゆくのだ[8] — マカルトの部屋を訪問したある者の記録

このアトリエの素晴らしさが評判になると、マカルトは1871年にこれを一般公開し[7]、さらに1873年ごろからは芸術家や名士を招いては祝宴を開くようになった[7]。かくしてオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世から提供されたマカルトの豪壮なアトリエは、ウィーンの上流階級の社交場と化した[5]。彼は「マカルト帽」などのファッションも生み出した[2]。アトリエには不如意箱が置いてあり、友人はそっとお金を借りていくことができた[9]

「画家の王」

皇帝夫妻の銀婚式パレード用の衣裳を着たマカルト

マカルトは「画家の王Malerfürst)」と呼ばれ、享受した名声と富は、画家としてはピーテル・パウル・ルーベンス以来、最高のものであった[4]。そのルーベンスの生誕300年を記念して制作した[5]カール5世のアントワープ入城』は、1878年の初め、数日のうちに3万4000人[4] もの見物客を集めたという。

マカルトはケルントナー通りに面した「カフェ・シャイドル」の常連であった[10]。このカフェでマカルトを見たヘルマン・バールは、次のように証言している。「ヴェネチア・スタイルの黒ひげの小男が、カフェ・シャイドルの窓際の席に着き、チェスに興じていると、ケルントナー通りの通行が毎日おびやかされた[10]」窓の向こうのマカルトを見物しようとする人々でカフェの前の道が混雑したという、マカルトの人気ぶりを示すエピソードである。

マカルトはウィーンの壮大な建築物の装飾を最も多く手掛けたであろうと推測されている[11]。マカルトは時代の寵児だったが、しかし彼に対する批判が存在しないわけではなかった。1873年から1876年にかけて、マカルトと同じくウィーン美術アカデミーの教授だったアンゼルム・フォイエルバッハはマカルトのことを、デッサン配色法もなっていない、誰の体にも合わない洋服の仕立て屋である、などとこき下ろした[9]

マカルトの祝祭行列(ドイツ語版)も参照。

1879年、ウィーンアカデミーの教授に任命され、同年4月27日の皇帝夫妻の銀婚式パレードのプロデュースを手掛けた[2][1]。これがマカルトの絶頂期であった[4]。ウィーン芸術家協会から派遣された五名の代表のうち、マカルトは行列全体のデザインと演出を担当した[12]歴史主義建築が立ち並ぶリングシュトラーセを、マカルトが考案した豪華な山車を交えて、16世紀風の衣装に身を包んだ人々が行進するさまは、まるで一幅の歴史画を見るようであったという[13]。パレードは大成功に終わり、その評判は遠く新世界にまで伝えられた[13]

  • 『五感(フランス語版)』(Die fünf Sinne)
    五感(フランス語版)』(Die fünf Sinne)
  • 『カール5世のアントワープ入城』(Der Einzug Karls V in Antwerpen)1878年
    カール5世のアントワープ入城』(Der Einzug Karls V in Antwerpen)1878年
  • マカルトによる祝祭行列のデザインの一例(1879年、キャンバス、油絵)
    マカルトによる祝祭行列のデザインの一例(1879年、キャンバス、油絵)

死去

1881年、バレリーナとの結婚を境にして、上流社会から次第に遠ざけられるようになった[4]1884年10月3日、梅毒による麻痺のために[4]、44歳で死去した。葬儀は盛大に営まれ、王侯貴族を別にすれば、1910年のウィーンの「名物市長」カール・ルエーガーの葬儀まで、マカルトのものを凌ぐ規模の葬儀はなかった[4]

墓はウィーン中央墓地にある。マカルトの死後、グスタフ・クリムトがその継承者とみなされた[14]。やがて、マカルトの残した極彩色で享楽的感覚の巨大な絵画は、芝居じみた下品なものと捉えられるようになった[11]。近年になってマカルトは肖像画の分野でも再評価されるようになった[15]

ギャラリー

  • 『アリアドネの勝利』(Der Triumph der Ariadne)1873-74年
    アリアドネの勝利』(Der Triumph der Ariadne)1873-74年
  • 『日本娘』(Die Japanerin)1875年[16]
    『日本娘』(Die Japanerin)1875年[16]
  • 『ラブレター』(Der Liebesbrief)1875年
    『ラブレター』(Der Liebesbrief)1875年
  • 『エジプトの王女』(An Egyptian Princess)1875年
    『エジプトの王女』(An Egyptian Princess)1875年
  • 『メッサリナ』1878年、モデルは帝国劇場の専属女優シャルロッテ・ヴォルター(ドイツ語版)[5]。
    メッサリナ』1878年、モデルは帝国劇場の専属女優シャルロッテ・ヴォルター(ドイツ語版)[5]
  • 『祈り』(Die Betende)1880年
    『祈り』(Die Betende)1880年
  • 『夏の夜の夢』(Der Sommernachtstraum)1882年
    夏の夜の夢』(Der Sommernachtstraum)1882年
  • 『ダンスパーティーの後の夢』
    『ダンスパーティーの後の夢』
  • 『クレオパトラの死』(Der Tod der Kleopatra)1875 - 1876年、モデルはシャルロッテ・ヴォルター(ドイツ語版)[3]
    『クレオパトラの死』(Der Tod der Kleopatra)1875 - 1876年、モデルはシャルロッテ・ヴォルター(ドイツ語版)[3]
  • 『貴婦人』
    『貴婦人』

関連論文

出典

  1. ^ a b c d 西川 2008, p. 189.
  2. ^ a b c d 西川 2006, p. 65.
  3. ^ a b 平田(1996) p.249
  4. ^ a b c d e f g h ジョンストン(1986) p.213
  5. ^ a b c d e f 幅 1977, p. 131.
  6. ^ a b ジョンストン(1986) p.212
  7. ^ a b c d 山之内 1997, p. 39.
  8. ^ 幅 1977, p. 132.
  9. ^ a b ジョンストン(1986) p.214
  10. ^ a b 平田(1996) p.136
  11. ^ a b ツェルナー(2000) p.579
  12. ^ 山之内 1997, p. 37.
  13. ^ a b 山之内 1997, p. 43.
  14. ^ 馬場 1998, p. 67.
  15. ^ シュピール(1993) p.94
  16. ^ 西川 2006, p. 63.

参考文献

  • 幅健志「世紀転換期その 2 : 若きヴィーン派の世界」『同志社外国文学研究』第18号、同志社大学外国文学会、1977年10月、p107-158、doi:10.14988/pa.2017.0000010682、ISSN 02862832、NAID 110000199049。 
  • W.M.ジョンストン 著、井上修一、岩切正介、林部圭一 訳『ウィーン精神1:ハープスブルク帝国の思想と社会 1848-1938』みすず書房、1986年8月22日。ISBN 4-622-01768-7。 
  • ヒルデ・シュピール(ドイツ語版) 著、別宮貞徳 訳『ウィーン:黄金の秋』原書房、1993年7月8日。ISBN 4-562-02444-5。 
  • 平田達治『輪舞の都ウィーン:円型都市の歴史と文化』人文書院、1996年5月25日。ISBN 4-409-51040-1。 
  • 山之内克子「十九世紀ウィーンにおける市民祝祭 : 皇帝フランツ・ヨーゼフ銀婚式祝祭行列を中心に」『千葉大学社会文化科学研究』第1号、千葉大学大学院社会文化科学研究科、1997年2月、27-51頁、ISSN 1342-8403、NAID 110004597402。 
  • 馬場雅美「<ノート>プラハの世紀末芸術ノート(1) : 歴史主義からアールヌーヴォーへの過渡期をめぐって」『北海道東海大学紀要. 芸術工学部』第17巻、北海道東海大学、1998年3月、65-74頁、ISSN 02884992、NAID 110000214020。 
  • エーリヒ・ツェルナー 著、リンツビヒラ・裕美 訳『オーストリア史』彩流社、2000年5月10日。ISBN 4-88202-580-9。 
  • 西川智之「ウィーンのジャポニスム(後編) - パリとの比較を中心に - (日本像を探る)」『言語文化研究叢書』第5号、名古屋大学大学院国際言語文化研究科、2006年3月、63-82頁、doi:10.18999/lancrs.5.63、ISSN 1347-1600、NAID 120000974762。 
  • 西川智之「芸術により飾られて分離派結成までのウィーンの芸術運動」『言語文化論集』第29巻第2号、名古屋大学大学院国際言語文化研究科、2008年3月、187-203頁、doi:10.18999/stulc.29.2.187、ISSN 0388-6824、NAID 120000976345。 

外部リンク

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