シェール・シング

シェール・シング
Sher Singh
シク国王
シェール・シング
在位 1841年 - 1843年
戴冠式 1841年1月27日
別号 マハーラージャ

出生 1807年12月4日
死去 1843年9月15日
ラホールラホール城
王朝 スケルチャキア朝
父親 ランジート・シング
宗教 シク教
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シェール・シング(Sher Singh, 1807年12月4日 - 1843年9月15日)は、北インドパンジャーブ地方シク王国の君主(在位:1841年 - 1843年)。

生涯

1807年12月4日シク王国の君主であるランジート・シングの息子として生まれた[1]。このとき、双子の弟としてターラー・シングも生まれている[1]

1840年11月6日、シク王ナウ・ニハール・シングが死亡した際、シェール・シングが王に推挙された[1]。だが、ナウ・ニハール・シングの未亡人サーヒブ・カウルが妊娠していたことで、12月2日にナウ・ニハール・シングの母チャーンド・カウルが摂政として王国を統治することを宣した[2]

1841年1月13日、シェール・シングは歩兵2万5000、騎兵8000、大砲45門をもって、チャーンド・カウルとその兵5000をラホールに包囲した[3]

かくして、1月18日に両者の間で停戦が取り決められ、シェール・シングが王となり[1]、チャーンド・カウルは9万ルピーの年金とともに宮殿で年金生活者となった[4]

1843年9月15日、シェール・シングは宰相ディヤーン・シングとともに、その従兄弟アジート・シング・サンダーンワーリーアーによって暗殺された[1]

新たに宰相となったジャワーハル・シングは直ちにこの反乱を鎮圧したものの、ランジート・シングの死後に続く一連の内乱で軍隊のカールサーが台頭し、9月21日に彼を殺害したのち、シェール・シングの弟ドゥリープ・シングを王とした。

ギャラリー

  • ランジート・シングの王座に座るシェール・シング
    ランジート・シングの王座に座るシェール・シング
  • シェール・シングと廷臣
    シェール・シングと廷臣
  • 舞踊を見るシェール・シング
    舞踊を見るシェール・シング
  • 入浴後のシェール・シング
    入浴後のシェール・シング

出典・脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c d e Lahore 4
  2. ^ Dhian Singh
  3. ^ Maharaja Sher Singh (1807 - 1843)
  4. ^ Sher Singh, Maharaja

関連項目

ウィキメディア・コモンズには、シェール・シングに関連するカテゴリがあります。
シク王

ランジート・シング1801-1839 / カラク・シング1839 / ナウ・ニハール・シング1839-1840 / チャーンド・カウル 摂政1840-1841 / シェール・シング1841-1843 / ドゥリープ・シング1843-1849

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