オットー2世(Otto II., 955年 - 983年12月7日)は神聖ローマ皇帝及びイタリア王(在位:980年 - 983年)。オットー1世とその2番目の妻アーデルハイト・フォン・ブルグントの息子。973年までは父の後継者としての共立王、共同皇帝。偉大なる父の偉業を受け継いで単独の皇帝となってからも版図の拡大・皇帝権の強化を図ったが帝国各地の反乱に苦しみ、28歳でマラリアのために急逝した。
生涯
957年に異母兄のシュヴァーベン大公リウドルフがイタリア遠征の中途で熱病にかかって病没したため[1]、父の後継者となった。
961年にヴォルムスにおいて父オットー1世に共同統治を行う王に選ばれ、同年アーヘンで戴冠した[2]。これには母アーデルハイトの強い意向があったと考えられる。967年にはローマで教皇ヨハネス13世により共同皇帝としても戴冠した。神聖ローマ皇帝と帝国の正統性については古代ローマから連続した帝国を称するギリシャから強い反対があり、両帝国は968年から971年にかけて、イタリアのプッリャ(ドイツ語ではアプリーエン)で戦争を行った。その間、ギリシャではニケフォロス2世フォカスが暗殺され、皇位を簒奪したヨハネス1世ツィミスケスは講和を選ぶという思いがけなく有利な展開となった。オットー2世はツィミスケスの姪テオファヌと972年結婚した[3]。ローマでの結婚後ただちにテオファヌは教皇から4月14日に皇后として戴冠された。
973年、父帝の死によって王権と帝権を継承したオットー2世は、間もなく各地の反乱鎮圧に奔走することになった。帝国南部では、従弟でオットー1世の弟ハインリヒ1世の子バイエルン公ハインリヒ2世が、かねてから王権を無視する姿勢をみせていた。それゆえ973年末、ハインリヒ2世の権力削減を図ったが、これが武力反乱を招き[4]、鎮圧には978年まで時を要した[5]。帝国西部では、下ロートリンゲン大公の任命問題から西フランク王国と対立、やはり武力衝突へと至る[6]。この東西フランク王国の対立は980年に和解[7]、ようやくアルプス以北を平定する。
980年末よりイタリア遠征を行い、北イタリア各地を巡行したのちにローマに入った[5]。当時、対立教皇ボニファティウス7世と争っていた教皇ベネディクトゥス7世の地位を安定させ[8]、981年の感謝祭をローマで祝う。その後、イタリア全土に皇帝の支配を及ぼそうと、当時東ローマ帝国の影響下にあったイタリア南部に遠征する[8]。一時は戦いを優勢に進めたが、当時の地中海世界ではイスラム教徒が強勢を誇っており、シチリア島から北上したイスラム軍にコロンナ岬の戦いで完敗した[8]。
その後もイタリアに留まったが、間もなく帝国の東北部で西スラヴ族の反乱が勃発する。この際にブランデンブルクなどが襲撃を受けて破壊され、帝国の版図は縮小する[9]。その対応に乗り出そうという最中の983年12月7日、その命を不幸にもマラリアが奪った[9]。28歳であった。旧サン・ピエトロ大聖堂に葬られた[10]。
家系
テオファヌとの間に4人の子を儲けた。
脚注
[脚注の使い方]
注釈
出典
- ^ Schutz, p. 51
- ^ 瀬原、p. 87
- ^ 瀬原、p. 92
- ^ 瀬原、p. 95。973年、ハインリヒ2世の妹婿シュヴァーベン公ブルヒャルト3世が死去した後、オットー2世は異母兄リウドルフの子で自らの甥オットーをシュヴァーベン公位につけた。ハインリヒ2世はこの人事に不満を持った。
- ^ a b 瀬原、p. 99
- ^ 瀬原、p. 97-98
- ^ 瀬原、p. 98
- ^ a b c 瀬原、p. 100
- ^ a b 瀬原、p. 101
- ^ 瀬原、p. 101-102
参考文献
- 下津清太郎 『世界帝王系図集 増補版』 近藤出版社、1987年
- 成瀬治 他 『世界歴史大系 ドイツ史1』 山川出版社、1997年
- 瀬原義生 『ドイツ中世前期の歴史像』 文理閣、2012年
- 三佐川亮宏 『紀元千年の皇帝―オットー三世とその時代』刀水書房、2018年
- Herbert Schutz, The Medieval Empire in Central Europe: Dynastic Continuity in the Post-Carolingian Frankish Realm, 900-1300, Cambridge University Scholars, 2010.
関連項目
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歴代ドイツ君主・盟主 |
カロリング朝 | - (ピピン751-768)
- カール1世皇帝(768)-814
- ルートヴィヒ1世皇帝814-840
- ロタール1世皇帝840-843
- ルートヴィヒ2世843-876
- カールマン2世876-880
- ルートヴィヒ3世876-882
- カール3世皇帝876-887
- アルヌルフ皇帝887-899
- ルートヴィヒ4世899-911
- 断絶
- コンラート1世1911-918
| 共同王 | |
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ザクセン朝 | - ハインリヒ1世919-936
- オットー1世皇帝936-973
- オットー2世皇帝973-983
- オットー3世皇帝983-1002
- ハインリヒ2世皇帝1002-1024
| 共同王 | |
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対立王 | - バイエルン公アルヌルフ919-921
- バイエルン公ハインリヒ2世984-985
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ザーリアー朝 | - コンラート2世皇帝1024-1039
- ハインリヒ3世皇帝1039-1056
- ハインリヒ4世皇帝1056-1105
- ハインリヒ5世皇帝1105-1125
- 断絶
- ロタール3世2,皇帝1125-1137
| 共同王 | - ハインリヒ3世1028-1039
- ハインリヒ4世1053-1156
- イタリア王コンラート1087-1098
- ハインリヒ5世1198-1105
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対立王 | |
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ホーエンシュタウフェン朝 | - コンラート3世1138-1152
- フリードリヒ1世皇帝1152-1190
- ハインリヒ6世皇帝1190-1197
- フリードリヒ2世1197-1198
- フィリップ1198-1208
- 中断
- オットー4世3,皇帝1208-1215
- 再開
- フリードリヒ2世皇帝(復位)1215-1220
- ハインリヒ(7世)1220-1235
- コンラート4世1237-1254
| 共同王 | - ハインリヒ6世1169-1190
- フリードリヒ2世1194-1197
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対立王 | - ヴェルフ家オットー1198-1208
- シチリア王フリードリヒ1212-1215
- ハインリヒ・ラスペ1246-1247
- ホラント伯ヴィルヘルム1248-1254
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大空位時代 | - ホラント伯ヴィルヘルム1254-1256
- コルンヴァル伯リヒャルト1257-1272
| 対立王 | - カスティーリャ王アルフォンソ10世1257-1275
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非世襲期 | - ルドルフ1世41273-1291
- アドルフ51292-1298
- アルブレヒト1世41298-1308
- ハインリヒ7世6,皇帝1308-1313
- ルートヴィヒ5世7,皇帝1314-1347
- カール4世6,皇帝1347-1378
- ヴェンツェル61378-1400
- ループレヒト71400-1410
- ジギスムント6,皇帝1410-1437
- アルブレヒト2世41438-1439
| 共同王 | - フリードリヒ3世41325-1230
- ヴェンツェル61376-1478
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対立王 | |
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ハプスブルク家 | - フリードリヒ4世皇帝1440-1493
- マクシミリアン1世皇帝1493-1519
- カール5世皇帝1519-1556
- フェルディナント1世皇帝1556-1564
- マクシミリアン2世皇帝1564-1576
- ルドルフ2世皇帝1576-1612
- マティアス皇帝1612-1619
- フェルディナント2世皇帝1619-1637
- フェルディナント3世皇帝1637-1657
- レオポルト1世皇帝1658-1705
- ヨーゼフ1世皇帝1705-1711
- カール6世皇帝1711-1740 | 断絶 | カール7世7,皇帝1742-1745
| 共同王 | - マクシミリアン1世1486-1593
- フェルディナント1世1531-1556
- マクシミリアン2世1562-1564
- ルドルフ2世1575-1676
- フェルディナント3世1636-1637
- フェルディナント4世1653-1654
- ヨーゼフ1世1690-1705
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ハプスブルク=ロートリンゲン家 | - フランツ1世皇帝1745-1765
- ヨーゼフ2世皇帝1765-1790
- レオポルト2世皇帝1790-1792
- フランツ2世皇帝(オーストリア皇帝フランツ1世)1792-1806
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ライン同盟 | |
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連邦主席 | - オーストリア皇帝フランツ1世1815-1835
- オーストリア皇帝フェルディナント1世1835-1848
- ヨハン大公(帝国執政)1848-1849
- オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世1850-1866
- プロイセン王ヴィルヘルム1世(北ドイツ連邦)1867-1871
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ドイツ皇帝 | - プロイセン王ヴィルヘルム1世1871-1888
- プロイセン王フリードリヒ3世1888
- プロイセン王ヴィルヘルム2世1888-1918
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カロリング朝 | - カール1世800-814
- ルートヴィヒ1世813-840
- ロタール1世817-855
- ルートヴィヒ2世850-875
- カール2世875-877
- カール3世881-887
- グイード1891-894
- ランベルト1891-898
- アルヌルフ896-899
- ルートヴィヒ3世2901-915
- ベレンガル3915-924
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ザクセン朝 | - オットー1世962-973
- オットー2世967-983
- オットー3世996-1002
- ハインリヒ2世1014-1024
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ザーリアー朝 | - コンラート2世1027-1039
- ハインリヒ3世1046-1056
- ハインリヒ4世1084-1105
- ハインリヒ5世1111-1125
- ロタール3世41133-1137
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ホーエンシュタウフェン朝 | - フリードリヒ1世1155-1190
- ハインリヒ6世1191-1197
- オットー4世51209-1215
- フリードリヒ2世1220-1250
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ルクセンブルク家 | - ハインリヒ7世1312-1313
- ルートヴィヒ4世61328-1347
- カール4世1355-1378
- ジギスムント1433-1437
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ハプスブルク家 | - フリードリヒ3世1452-1493
- マクシミリアン1世1508-1519
- カール5世1530-1556
- フェルディナント1世1558-1564
- マクシミリアン2世1564-1576
- ルドルフ2世1576-1612
- マティアス1612-1619
- フェルディナント2世1619-1637
- フェルディナント3世1637-1657
- レオポルト1世1658-1705
- ヨーゼフ1世1705-1711
- カール6世1711-1740
- カール7世61742-1745
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ハプスブルク=ロートリンゲン家 | - フランツ1世71745-1765
- ヨーゼフ2世1765-1790
- レオポルト2世1790-1792
- フランツ2世1792-1806
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