アレクセイ・ペトロヴィチ

アレクセイ・ペトロヴィチ
Алексей Петрович
ツァレーヴィチ

出生 1690年2月28日ユリウス暦2月18日)
死去 (1718-06-15) 1718年6月15日(28歳没)
配偶者 シャルロッテ・クリスティーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル
子女 ナターリア
ピョートル2世
父親 ピョートル1世
母親 エヴドキヤ・ロプーヒナ
テンプレートを表示

アレクセイ・ペトロヴィチロシア語: Алексей Петрович, 1690年2月28日ユリウス暦2月18日) - 1718年6月15日)は、ロシアツァレーヴィチ(皇子・皇太子)。ツァーリ・ピョートル1世とその最初の妃エヴドキヤ・ロプーヒナの長男。

生涯

父と違って全く軍事・政治に興味を示さなかった。1708年に父よりモスクワの知事に任命されたが、政治に無関心で信仰にのみ関心を示し、大酒飲みだったという。1711年ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公ルートヴィヒ・ルドルフの娘であるシャルロッテ・クリスティーネと結婚し、長女ナターリア(1714年 - 1728年)、長男ピョートル(のちの皇帝ピョートル2世、1715年 - 1730年)の1男1女をもうけた。しかし、シャルロッテは1715年10月のピョートルの出産直後に死去した。

その後、父の西欧化政策に反発して対立する。これには妻の死後、愛人として迎えたアフロシニヤ(ロシア語版、英語版)との交際を反対されたためともいわれる。ピョートル大帝は廃嫡して修道院に追放しようと目論み、アレクセイは1716年秋にオーストリアウィーンに逃亡した。しかし、ナポリに逃亡した後の1717年10月にピョートル大帝が派遣した特使に追いつかれ、強制的にロシアに連れ戻された。

帰国後、皇太子アレクセイの逃亡は陰謀であると考えた大帝は、「秘密官房」に命じて徹底的に調査した。その結果、アレクセイの生母であるエヴドキヤ・ロプーヒナは辺境の修道院に追放、アレクセイ派の側近や友人らは処刑され、投獄された愛人のアフロシニヤも処罰された。

結局、アレクセイは帝位継承権を奪われた上に死刑を言い渡された。その直後に発作で獄死した。28歳没。


ウィキメディア・コモンズには、アレクセイ・ペトロヴィチに関連するカテゴリがあります。
第1世代
  • アレクセイ・ペトロヴィチ
  • アレクサンドル・ペトロヴィチ
  • パーヴェル・ペトロヴィチ
  • ピョートル・ペトロヴィチ
第2世代
  • ピョートル2世
  • ピョートル3世
第3世代
  • パーヴェル1世
第4世代
第5世代
第6世代
第7世代
第8世代
第9世代
第10世代
1ロシア大公として誕生したが、アレクサンドル3世の布告により大公の地位を喪失した。
2ロマノフ家協会(英語版)は、キリル・ウラジーミロヴィチによる家長位請求を認めていない。
3ロマノフ家協会は、ウラジーミル・キリロヴィチ・ロマノフによる家長位請求を認めていない。
典拠管理データベース ウィキデータを編集
全般
  • FAST
  • ISNI
  • VIAF
  • WorldCat
国立図書館
  • ノルウェー
  • フランス
  • BnF data
  • ドイツ
  • イスラエル
  • アメリカ
  • スウェーデン
  • ラトビア
  • チェコ
  • オランダ
  • ポーランド
人物
  • ドイッチェ・ビオグラフィー
その他
  • IdRef