アルパド

曖昧さ回避 この項目では、古代シリアの都市国家について説明しています。ハンガリー王については「アールパード」をご覧ください。
アルパド

Arpad
遺跡
アルパドの位置(シリア内)
アルパド
アルパド
シリア内の位置
座標:北緯36度28分23秒 東経37度05分42秒 / 北緯36.473度 東経37.095度 / 36.473; 37.095座標: 北緯36度28分23秒 東経37度05分42秒 / 北緯36.473度 東経37.095度 / 36.473; 37.095
シリアの旗 シリア
アレッポ県
面積
 • 都市
0.48 km2
人口
 • 都市部
(推定)10,000−12,000人

アルパドArpad)は、シリア北西部、古代アラム人シロ・ヒッタイト国家群(英語版)(シリア・ヒッタイト)の都市。高さ8メートルの城壁を備えていた。紀元前9世紀に一度は新アッシリア帝国に服従したが、反乱に踏み切る。紀元前843年に新アッシリア帝国軍の攻撃を受け、3年の包囲戦の後に陥落、破壊された。その後、再建されたが、小規模なものにとどまった。

歴史

アルパドは、アレッポの北東約30キロメートルに位置し、おそらく現代のテル・リファート(英語版)に当たるとされる[2] アルパドとはヘブライ語で「贖罪の光」[3]または「私は広がる(支持される)」[4]を意味するとされる。

紀元前9世紀頃、アラム人の小さな部族国家群「新ヒッタイト」(Neo-Hittite、近年はシリア=ヒッタイト Syro-Hittite とも呼ばれる)諸国がレバント周辺からアナトリア南部、ユーフラテス川中流域に散在していた。紀元前9世紀にヤハン(おそらく部族名[5])のグシ王は、ユーフラテス川西岸からアレッポ周囲までの範囲に広がるビト・アグシ(Bit-Agusi)というアラム人の国家を建設し、アルパドを首都とした[6][7]。ビト・アグシは北のエザーズ(英語版)から南のハマまで広がっていた[8]。同時期のシリア=ヒッタイト国家群には、南のハマト、ユーフラテス川沿いのカルケミシュ、その少し下流にあるビト・アディニ(Bit-Adini、首都ティル・バルシプ)、北のグルグム(Gurgum、首都マルカシ)、東のハブール川沿岸にあるビト・バヒアニ(Bit-Bahiani、首都グザナ Tell Halaf/Guzana)などがある。ティル・バルシプからは、紀元前8世紀頃にアルパドとの条約を結んだことを示す石碑が出土している。

紀元前753年頃、アッシリアの王アッシュル・ニラリ5世はアルパドに遠征を行い、その王マティエルを服属させる事に成功した。この際の条約の一部は現在も残っており、マティエルが従わない場合にアッシリアが王族や都市にもたらす懲罰が延々と述べられている。

しかし、マティエル王の死後、アルパドはウラルトゥと同盟し、シリアにおける同盟国の中心になっていた。

紀元前743年、新アッシリア王国の王ティグラト・ピレセル3世サムサット(英語版)サルドゥリ2世のウラルトゥ軍に勝利すると、アルパドを包囲したが、アルパドはアッシリア軍の攻撃に屈せず、3年にわたる包囲戦を戦った。おそらくアルパドの遺跡であろうテル・リファートには、往事には8メートルの高さの城壁があったことが分かっている[9]。しかし、紀元前740年にアルパドは陥落し、ティグラト・ピレセル3世は住民を殺戮し市街を破壊[10]。アッシリアには「金30タラント、銀2,000タラント、(および各種の)動産」を持ち帰った[11]

ビト・アグシはアッシリアに併合され、東部はアルパド州、西部はツィンム州になり、アルパドは州都として再建されたが、市域は以前よりは小さなものとなった [12] [13] [14]セレウコス朝の時代でも人が住んでいたようである。

支配者

トレヴァー・ブライスによれば、以下の支配者が確認されている[15]

  • グシ(Gusi、紀元前890年-紀元前880年頃に即位[16]
  • ハドラム(Hadram、アッシリア語ではアドラムまたはアラメ、グシの息子、紀元前860年頃から紀元前830年頃)
  • アッタル・シュムキ1世(Attar-šumki I、ハドラムの息子、紀元前830年頃から紀元前800年頃)
  • バル・ハダド(Bar-Hadad、アッタル・シュムキ1世の息子、紀元前800年頃)
  • アッタル・シュムキ2世(Attar-šumki II、バル・ハダドの息子、紀元前8世紀前半)
  • マティール(Mati'ilu (Mati'el)、アッタル・シュムキ2世の息子、紀元前760年頃から紀元前745年頃)

聖書における記述

ヘブライ語聖書旧約聖書)では、大きく分けて二つの場面で登場する。

列王紀およびイザヤ書

列王紀およびイザヤ書では、アッシリアの高官ラブシャケが、ユダ王国ヒゼキヤ王(とエルサレム市民)に降伏を求める場面で、「アッシリアの強大な力に抵抗する諸国民の神々の無力さの証拠としてアルパドの命運に言及さ」れている[17]

  • s:列王紀下(口語訳)#18:34
    • ハマテやアルパデの神々はどこにいるのか。セパルワイム、ヘナおよびイワの神々はどこにいるのか。彼らはサマリヤわたしの手から救い出したか。
  • s:列王紀下(口語訳)#19:13
    • ハマテの王、アルパデの王、セパルワイムの町の王、ヘナの王およびイワの王はどこにいるのか』」。
  • s:イザヤ書(口語訳)#10:9
    • カルノはカルケミシのようではないか。ハマテはアルパデのようではないか。サマリヤはダマスコのようではないか。
  • s:イザヤ書(口語訳)#36:19
    • ハマテやアルパデの神々はどこにいるか。セパルワイムの神々はどこにいるか。彼らはサマリヤをわたしの手から救い出したか。
  • s:イザヤ書(口語訳)#37:13
    • ハマテの王、アルパデの王、セパルワイムの町の王、ヘナの王およびイワの王はどこにいるか』」。

エレミヤ書

エレミヤ書では、諸国に対する裁きの預言の中で、地理的に近いダマスカス(アラム・ダマスカス王国(英語版))への裁きの前置きとして名を挙げられている。

  • s:エレミヤ書(口語訳)#49:23
    • ダマスコの事について、「ハマテとアルパデは、うろたえている、彼らは悪いおとずれを聞いたからだ。彼らは勇気を失い、穏やかになることのできない海のように悩む。

考古学的調査

テル・リファート遺跡は、楕円形をしており長直径250メートル×短直径233メートル。この中で、主城塞は142メートル×142メートルで最高部は高さ30メートル。全域を囲む防壁の延長は約2マイル (3.2 km)である。 この遺跡は、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン考古学研究所(英語版)またはロンドン大学のチームによって発掘された。1956年に予備調査が行われた後、1961年と1964年の2シーズンにわたって発掘された。発掘隊はM. V. Seton Williamsが率いた[18][19]。この3回の調査では、多数のコインが発見され、その年代は紀元前2世紀から紀元後14世紀まであった[20]

1977年には同じく考古学研究所によって、テル・リファート周辺の考古学的調査が行われた[21]

セフィレ碑文

セフィレ碑文(英語版)は現存する古アラム語最大の碑文である[22]。アレッポの南東約25キロメートルのセフィレ村で発見されたもので、KTK(地名または国名)の王バル・ガアヤとアルパド王「アッタルセマク息子マティエル」の間で結ばれた条約である[23]

古代の法律文書の通例として、末尾は神々を含めた証人の名のリストとそれを破った場合の呪いという形になっている[24]

脚注

  1. ^ Lipinsky 2000, p. 527.
  2. ^ Younger 2016, p. 509.
  3. ^ “Arpad Definition and Meaning - Bible Dictionary”. Bible Study Tools. 2020年10月27日閲覧。
    (『アルパドの定義と意味』(聖書事典。バイブル・スタディ・ツール))
  4. ^ “NETBible: Arpad”. classic.net.bible.org. 2020年10月27日閲覧。
    (ネット聖書『アルパド』の項)
  5. ^ Younger 2016, p. 503.
  6. ^ Younger 2016, pp. 504, 509, 523.紀元前849年にそれまでの首都だったアルネ(Arne)がシャルマネセル3世に破壊されたのち、首都となった。
  7. ^ Lipinsky 2000, p. 195.
  8. ^ Lipinsky 2000, p. 99.
  9. ^ Lipinsky 2000, p. 529.
  10. ^ Healy 1992, p. 25.
  11. ^ Lipinsky 2000, p. 219 仮にバビロニアと同じ1タラント=30.2キログラムで計算すればおよそ金0.9トンと銀60トンになる。
  12. ^ Kipfer 2000, p. 626.
  13. ^ Ebeling & Meissner 1932, p. 153 Ernst Honigmann: Arpad(同文献p.153収録の「アルパド」(著:アーンスト・ホニグマン)より)
  14. ^ Younger 2016, pp. 546–547.
  15. ^ Bryce 2012, pp. 165–168, 308.
  16. ^ Younger 2016, p. 517.
  17. ^ “アルパド — ものみの塔 オンライン・ライブラリー”. Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania (2020年). 2020年10月27日閲覧。
  18. ^ Williams 1961, pp. 68–87.
  19. ^ Williams 1967, pp. 16–33.
  20. ^ Clayton 1967, pp. 143–154.
  21. ^ Matthers 1978, pp. 119–162.
  22. ^ 守屋 1982, p. 39.
  23. ^ 酒井 龍一「古アラム語によるセフィレ碑文の検討(1)」『文化財学報』第18巻、2003年3月、63-84頁、ISSN 09191518、2020年11月2日閲覧 
  24. ^ 守屋 1982, pp. 40, 51たとえばハンムラビ法典の末尾は神々の祝福に基づく制定者ハンムラビの正義を強調したあとで、破った場合には神々一人一人からどのような呪いが下されるかが、極めて具体的かつ多量に記述されている。英訳ハンムラビ法典参照

参考文献

  • K. Lawson Younger Jr. (2016-10-07) (英語). A Political History of the Arameans: From Their Origins to the End of Their Polities. SBL Press. ISBN 9781628370843. https://books.google.co.jp/books?id=vpgsDQAAQBAJ&lpg=PP1&hl=ja&pg=PA501#v=onepage&q=Arpad&f=false 2020年10月28日閲覧。 
    (『アラム人の政治史:その起源から国家の終焉まで』(著:K・ローソン・ヤンガー・ジュニア、2016年、聖書文学学会(米国)))
  • 守屋彰夫「セフィレ碑文における神々の機能」『オリエント』第25巻第2号、日本オリエント学会、1982年、38-54頁、doi:10.5356/jorient.25.2_38、ISSN 0030-5219、NAID 130000822737、2021年10月1日閲覧 
  • Lipinsky, Edward (2000). The Aramaeans: Their Ancient History, Culture, Religion. Peeters Publishers. ISBN 9789042908598. https://books.google.com/books?id=rrMKKtiBBI4C 
    (『アラム人:その古代史、文化、宗教』(著:エドワード・リピンスキー、2000年、ピーターズ出版(ベルギー国ルーベン)))
  • Healy, Mark (1992). The Ancient Assyrians. Osprey. ISBN 9781855321632. https://books.google.com/books?id=eT1tJ7oCv9AC 
    (『古代アッシリア人』(著:マーク・ヒーリー、1992年、オスプレイ出版(英国?))
  • Kipfer, Barbara Ann (2000). Encyclopedic Dictionary of Archaeology. Springer Science & Business Media. ISBN 9780306461583. https://books.google.com/books?id=XneTstDbcC0C 
    (『考古学百科事典』(著:バーバラ・アン・キッファー、2000年、シュプリンガー・サイエンス・アンド・ビジネス・メディア(ドイツ)))
  • Ebeling, Erich; Meissner, Bruno (1932). Reallexikon der Assyriologie und vorderasiatischen Archäologie. Berlin, Leipzig 
    (『アッシリア学・近東考古学事典』第1巻(編:エーリッヒ・エベリング、ブルーノ・マイスナー、1932年、ベルリン、ライプツィヒ))
  • Bryce, Trevor (2012) (英語). The World of the Neo-Hittite Kingdoms. A Political and Military History. OUP Oxford. ISBN 9780199218721. https://books.google.co.jp/books?hl=ja&id=_rMCTXGkM4gC&q=gusi#v=snippet&q=gusi&f=false 
    (『新ヒッタイト王国の世界:政治・軍事史』(著:トレバー・ブライス、2012年、オックスフォード大学出版))
  • Williams, M. Veronica Seton (1961). “Preliminary Report on the Excavations at Tell Rifa'at” (英語). Iraq (British Institute for the Study of Iraq) 23 (1): 68-87. doi:10.2307/4199696. https://www.cambridge.org/core/journals/iraq/article/preliminary-report-on-the-excavations-at-tell-rifaat/52BBA66D836ABD6124DE89043F78CCBA. 
    (ケンブリッジ大学年報「イラク」第23号(1961年)第1分冊p.68~87に収録されている『テル・リファート遺跡発掘の速報』(著:ヴェロニカ・シートン・ウィリアムズ))
  • Williams, M. Veronica Seton (1967). “The Excavations at Tell Rifa'at: 1964 Preliminary Report on” (英語). Iraq (British Institute for the Study of Iraq) 29 (1): 16-33. doi:10.2307/4199819. https://www.cambridge.org/core/journals/iraq/article/excavations-at-tell-rifaat-1964-second-preliminary-report/85DA350A05ACF7A05C573ABDB48BB306. 
    (ケンブリッジ大学年報「イラク」第29号(1967年)第1分冊p.16~33に収録されている『1964年のテル・リファート遺跡発掘の速報』(著:ヴェロニカ・シートン・ウィリアムズ)
  • Clayton, Peter A (1967). “The coins from Tell Rifaat” (英語). Iraq (British Institute for the Study of Iraq) 29 (2): 143-154. doi:10.2307/4199831. https://www.cambridge.org/core/journals/iraq/article/abs/coins-from-tell-rifaat/520DD285E6092120A0A342824E75485C. 
    (ケンブリッジ大学年報「イラク」第29号(1967年)第2分冊p.143~154に収録されている『テル・リファート出土のコイン』(著:ピーター・A・クレイトン))
  • Matthers, John (1978). “Preliminary Report of an Archaeological Survey” (英語). Iraq (British Institute for the Study of Iraq) 40 (7): 119-162. doi:10.2307/4200095. https://www.cambridge.org/core/journals/iraq/article/abs/tell-rifaat-1977-preliminary-report-of-an-archaeological-survey/C30B239C7B855DED39BD639E48FC57F5. 
    (ケンブリッジ大学年報「イラク」第40号(1978年)第7分冊p.119~162に収録されている『テル・リファート:1977年考古学調査の速報』(著:ジョン・マサーズ)